多層現実の建築 Sekai Cameraと「建築の解体」



「このような環境は、記号の群が明滅し、ゆれ動いている、とりとめのない場として成立しているといえよう。(…)しかもその記号が、空間のなかで占める位置の順列に決定性がなく、発生の序列も可変的で、不確定である。古典的な意味における可視的秩序は、まったく頼るに値しなくなる。」(磯崎新『建築の解体』)

2009年の9月24日にサービス開始となった"Sekai Camera"で目の前にある世界を覗けば、40年前に磯崎が見たままの景色が広がっている。<エアタグ>と名づけられた「ふき出し」が、画面に投影された現実空間の空気中を漂い、実際かわいらしくゆれている。ブレード・ランナーや攻殻機動隊の世界である。


セカイカメラは、現実空間にエアタグと呼ばれるデジタルなポストイットを貼付けることでコミュニケートするソーシャルARアプリケーションです。

拡張現実テクノロジーによって、現実空間はクリッカブルな世界に変換されます。スマートフォンを「かざす」だけで、「その場所」「その時」に対応した情報をインターネットから取得し、カメラが映し出す現実空間にオーバーレイして表示。またユーザー自身も自ら情報を投稿できます。セカイカメラは、現実空間とインターネットをつなぐ、新しいインタフェースを提供します。

http://support.sekaicamera.com/ja/serviceより)


ARとは、augmented reality、つまり「拡張現実」のことをいう。しかしこの呼び名は、いずれARが浸透した暁には霧散するだろう。「現実」に従属する「拡張現実」ではあり得なくなり、現実と平行するもうひとつの現実となるだろう。

当然、建築は変容せざるを得ない。しかし、テクノロジーの進展がこのような世界を目指しているのだとすれば、逆説的に建築にとっては希望でもあるのだ。現実の建築・都市空間がphotoshopにおける「背景レイヤ」のように、情報空間を支えるものとして多層現実の最下層に位置づけられるからである。建築家にとっての憎きネットの世界は再び現実世界へと舞い戻る。。しかしそれは本当だろうか? もうひとつの現実上にのみ存在する建築物—それは建設費はゼロだが内部空間を持たない「書割建築」だ—が実空間に投影された場合、それは新たな都市景観を生みだすはずである。そのとき、背景レイヤはその特権性を保持しえるだろうか?

つまり、ARは「平行するもうひとつの現実」にとどまらず、最終的には両現実は融解し「ひとつの」現実となるだろう。その結果、われわれはー2つの現実を行き来するのではなくーいくつもの情報のレイヤが重なったひとつの現実=<多層現実>を手に入れるだろう。めいめいが欲しい情報だけをその都度選択し表示する世界。おそらく「現実」は人類共通のものであることをやめ、徹底的に個人的なものとなる。


これは夢の世界でも近未来でもなく、数年のうちに実現される世界だろう。"Sekai Camera"の技術が例えば「網膜走査式モニター」(ようするにスカウター。たとえばブラザー社http://www.brother.co.jp/news/2008/rid/index.htm)などの技術と結びつくのは、あとほんの先である。



建築について考えてみよう。

東大の正門ちかくに「美味しい屋」という看板の掲げられた中華屋がある。しかしこの看板の価値は早番失われる。<エアタグ>に書かれた客の反応を見れば、それがほんとうに「おいしい」かどうかバレてしまうのだ。現実のサイン・ボードが用をなさなくなる。ついでに言えば、そこが中華屋だということを示す記号としての装飾も不必要になる(これは近代建築主義者にはよいニュースだ)。すべての装飾は<多層現実>の<別レイヤ>上で貼り付ければいい。近代建築とデコレーテッド・シェッド(@ヴェンチューリ)は<多層現実>上で手を結ぶ。

室内にカレンダーや好きなアイドルのピンナップを貼る必要はない。それは<別レイヤ>に貼り付けて、お望みなら日替わりで変えることもできる。他人に見られることもない。もちろん壁紙はもちろんのこと、窓の外の景色ですら、パリの街の屋根並み、次の日は月夜の草原、ということだってできなくはない。


ここで用いるキットは、出窓にとりつけられる箱形の部屋やカンヴァス、テントなど、なんでもとりつけられる自在型の支柱のようなものから、裏庭にぶらさげる装飾スクリーンのようなものも含んでいる。このスクリーンを下げることで、隣のおかみさんの洗濯物をみるかわりに、スイスのアルプスの光景がみえるという具合だ。

動き回る部屋としてのキャラバンから、屋上にねじどめされる庭園など、これまでの<アーキグラム>の全部のアイディアが、全く単純なかたちで、ここに提示されている(ピーター・クック「アドホックス」1972年)


<多層現実>はチャールズ・ムーアの作り出した「スーパー・グラフィックス」(建築物への巨大なお絵かき)の正確な現代版である。


スーパー・グラフィックスは、内部だけでなく、建築の外部にまで進出しはじめている。「シー・ランチ」のように、ロー・コストで簡単な作業でできあがるものであるために、その伝搬力はすさまじいものとなった。実は、このスーパー・グラフィックスの手法は、あきらかに現代建築の現象的特性を示すものなのである。すなわち、建築物の表層に、ひとつのシンボルとしての表層性をもった図像が、皮膜としてかぶさっている。(磯崎、前掲書)


その結果、「可視的世界のあらゆる部分の意味が、スケールの大きい簡明な記号で埋まり、その雑多な組み合わせのために、個別の意味が消失し、気ままで、ナンセンスな玩具箱の内部のような世界が出現」(磯崎)する。ムーアのオタク的自邸は、外見はふつう、しかしナカミは人形のコレクションを一ドル札の裏側にかかれたピラミッドにかざるという偏執的世界であった。<多層現実>では、個人の拠点である個室は趣味的情報で飾り立てられるであろう。


もうひとつ。

ある空き地に、将来計画があるとする。完成予想の建築パースが、その実際の敷地にオーバーレイして表示されるとしたら、<多層現実>のひとつのレイヤを未来が占めることになる。この瞬間から、われわれは未来を同時に生きることになる。あるいは、google earth上に古地図が表示できるように、過去もまたひとつの層として<多層現実>の一部となるとしたら。そう、それは視覚に限定されてはいるものの、タイムマシンそのものである。「眼のタイムマシン」は発明される。近いうちに。





これまで見てきたように、表層=記号・情報はもっとも脆弱である。リアルな表層に記号性をこめようとするあらゆる意図は無化されるだろうし、建築家の興味を著しく削ぐことになるだろう。伊東豊雄に代表される「構造」(近代的)を「装飾」(近代以降)と融合させる数々の試みも、このような現実のなかにあっては色あせてしまうかもしれない。なぜなら「近代」と「近代以降」(あるいはあらゆる対立物)を<多層現実>のレイヤに振り分ければ、もっと簡単に、衝突せず、共存できるのある。

とにかく、こうした問題系にもっとも接近していたのが磯崎新と「解体」の作家たちである以上、彼らの方法を再評価してみることが必要かもしれない。


ただ、これだけラディカルに未来を描いたものの、やはり今われわれの目の前にある現実には特権がある。それは、視覚以外の情報を持っている点である。視覚で処理できる情報は無限に重層するネット空間に簒奪されつくしてしまうかもしれないが、この世界の知覚は五感を使ってなされている。

だとしたら、建築家はこうした世界への拒否反応として、あるいは残された要素として半ば強制的に選ばざるを得ないものとして、「身体性」「手触り」「匂い」「得も言われぬもの」「なにごとのおはしますかは知らないもの」を持ち出すだろう。。それでいいのだろうか? こうした議論が過去の類型に回収されていくようなものだとしたら、必然的に世界から閉じて行かざるを得ないことを、たとえば篠原一男は究極的に教えてくれたのではないだろうか?


テクノロジーの躍進は、同じだけの大切なものを消失させることになる。そのとき、「失ったもの」の尊さを訴えるにとどまるか、「失ったもの」をテクノロジーの内側の論理で再構築するか。どちらが世界に役立つかはわかりきっている。



(以上、セカイカメラにびっくりしたので、思ったことを磯崎口調で。)

2 件のコメント :

  1. セカイカメラやまいすよね。。
    本当に「もの」と「ことば」が違うコードになって行くのに正直目をつむりたいくらいです。

    いきなりの告白ですが、やっぱhattoriさんと話がいろいろしたいですわ。
    以前から密かに思っていたのですがw
    よろしくおねがいします。

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  2. >tkgk
    いやまじでそろそろ建築同人つくろうか。議論してアクションするような。
    ひとりでやってても心細いし笑

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