リズム考(4) とんでもない朗読

まずはこれを聞いて欲しい。


ヤバい…ヤバすぎる。何これ。こんなん笑うわ。

一首目は「昨日より波浮(はぶ)の港にとどまれば東北風(ならい)吹けども鶯ぞ鳴く」と言っているのだが、もう一度言いたい。何だこれ。

きのうよりはぶのみなとにとどまればならいーふけどもうぐいすぞなく

まず、休符がない。そして各音が完全に等間隔である(「ならい」の「い」だけ倍の長さになっている)。完全に五七五七七なのに、四拍子はおろか、リズムがない。あるとすれば抑揚だが、その抑揚もN拍子を感じさせる類のものではない。


もう一つ行ってみよう。


駄目だ滅茶苦茶おもしろい。おもしろいし、驚愕の事実として、極めて三拍子性が高い。
一首目は「ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂しく降りにけるかも」である。これを分析するとこうなる。

1  2  3  4  5
ゆうーされーば◯◯|
だいーこんーのーーはにー◯◯◯|
ふるーしぐーれ◯◯◯◯い|
たくーさびーしくー◯◯ふ|
りにーけるーかも◯|       (◯は休符)


他に個人的に好きなのはこれですね。


あぁなんて魅力的な歌だろう。四拍子だとか三拍子だとかいったことが、何か西欧の冷徹な理性の産物でしかないような気になってくるし、実際そうなのだ。与謝野晶子、斎藤茂吉、そして一世代下の葛原妙子と3つ聴いてみて、これらの朗読に貫通する法則性は見当たらない。ないのだ。すべてを比較しうる尺度が、理論が。日本語四拍子説とは何だったのか。古い日本語が四拍子なのだとしたら、このお三方は突如プログレに目覚めたか、フリージャズを発明したことになるが、そんなわけない。なにか彼らが参照した日本の調べというものがあるに違いないのだ。

この「現代短歌朗読集成」では52人の歌人の朗読が聞ける。たぶん絶版で、すべてYouTubeに転がっている。
試しに52人のうち、四拍子的に読む人とそうでない人を大雑把に分けてみると、ヤバい朗読、ちょっと変な朗読をするのは11人で、うち9人は1900年より前に生まれている。
残りの41人は四拍子的に読むと言っていい人たちで、このうち大半の38人は1900年以降生まれである。例えば寺山修司(1935年生まれ)や俵万智(1962年生まれ)になると、かなり普通の朗読になる。きっと1900年頃を境にして何かが変わったのだと思うが、それを研究するとなったら大学で本気でやらねばならない。

リズム考(5)へ。


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