(第1回)夏目漱石『草枕』と幸田文『流れる』その1



別に比べたくて並べたわけではなく、最近読んだというだけのことだ。とはいえ比較したくなったから書いている。

幸田文(1904-1990)は幸田露伴(1867-1947)の娘で、露伴は夏目漱石(1867-1916)と同じ年に生まれている。




『草枕』(1906)は漱石がイギリス留学から帰ってきて3年、『我が輩は猫である』(1905)や『坊っちゃん』(1906)と同じ頃の、つまり初期作である。『草枕』はかなりトンがった小説で、最初に明確なコンセプトを打ち立て、その通り進めていくというヘンな小説だ。主人公は俗世を離れた山奥の温泉場に向かいながら次のように考える。


余もこれから逢う人物を—百姓も、町人も、村役場の書記も、爺さんも婆さんも—悉く大自然の点景として描き出されたものと仮定して取こなして見よう。尤も画中の人物と違って、彼等はおのがじし勝手な真似をするだろう。然し普通の小説家の様にその勝手な真似の根本を探ぐって、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。(略)これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気が無暗に双方で起らない様にする。(略)言を換えて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて彼等の動作を芸術の方面から観察する事が出来る。


というコンセプトを宣言した背景には、「自然主義や西欧文学の現実主義への批判」があって、「東洋趣味の高唱」(ともにカバーの紹介文より)がある。ようするに「甘い恋だの酸っぱい人間関係のいろいろだのは暑苦しいし普段の生活で飽き飽きするほど体験してるんだから、もっと自然や人間の所作の美しさだけ書こうじゃないか。それこそが芸術の価値だ」という考えがある。というわけで、劇中にいわゆる心理描写はないし、というか「劇」そのものがない。美しい女がでてきても恋愛劇に発展させない注意深さだ。




今までのやり方にNOを唱え、明快で新しいコンセプトを打ち立てて、つくる。これって、とても(近代)建築的。だからかどうかわからないが、『草枕』の文章はあまり音楽的ではない。

コンセプトが明快であるがゆえに、小説内で起こる事件はそのコンセプトを強化するために召喚されているようにも読める。それに、一般的には小説と呼べないようなものを小説として書いてやる、という漱石のトンがった心があって、それがこの小説そのものをパフォーマティブ(行為遂行的)にしている。つまり「どうだこれも小説なんだぞ」という香りを嗅いでしまう。もちろんそれが『草枕』の醍醐味(漱石の漢詩から西欧の小説までカバーする圧倒的な教養をもって描かれた点景描写)を減じることにはならない。むしろ読者は漱石が設定したコンセプトに乗っかって、次々と展開する漱石の妙技を味わうことで満足するのだ。

たぶん「コンセプト」というものはつねに「パフォーマティブ」と切り離し得ない。それから「コンセプト」には「時間」が含まれない。「コンセプト」が時と場合で変化しては困るからだ。というわけなので、「コンセプト」は音楽とは相容れない。音楽は時間であって、コンスタティブ(事実確認的)というか、何のためでもなくただ音楽である。しかし音楽だって何もないところから生まれはしない。「コンセプト」ではないのだから何だろうか?「動機」だろうか「主題」だろうか。音楽を生み出しドライブさせる要素が知りたい。(ちなみにパフォーマティブな音楽もコンセプトありきの音楽もあるけど、そういうものを僕は音楽とは思わない。)




『草枕』が音楽的でないのには、もうひとつ理由がある。『草枕』は、旅先で出会ったあらゆる出来事を美しさの観点から眺めつくす、というものだった。主人公が画家なので、体験するいろいろは人物込みの風景画として吟味される。あるいは「手当り次第十七字にまとめて見る」ことで全てを言葉のゲームに換え、自身に降りかかる利害や湧き起こる感情すら相対化し、「詩としていい出来かどうか」という問題にすりかえる。

たとえば春の夕暮れ、宿の部屋の机にむかってぽかーんとしているときの曖昧な恍惚を、漱石は「画にして見たらどうだろうと考えた。」しかしうまくいかない。


鉛筆を置いて考えた。こんな抽象的な興趣を画にしようとするのが、抑もの間違である。人間にそう変わりはないから、多くの人のうちには屹度自分と同じ感興に触れたものがあって、この感興を何等の手段かで、永久化せんと試みたに違いない。試みたとすればその手段は何だろう。

忽ち音楽の二字がぴかりと眼に映った。成程音楽はかかる時、かかる必要に逼られて生まれた自然の声であろう。楽は聴くべきもの、習うべきものであると、初めて気が付いたが、不幸にして、その辺の消息はまるで不案内である。

次に詩にはなるまいかと、第三の領分に踏み込んで見る。レッシングと云う男は、時間の経過を条件として起る出来事を、詩の本領である如く論じて、詩画は不一にして両様なりとの根本義を立てた様に記憶するが、そう詩を見ると、今余の発表しようとあせっている境界も到底物になりそうにない。余が嬉しいと感ずる心裏の状況には、時間はあるかも知れないが、時間の流れに沿うて、逓次に展開すべき出来事の内容がない。一が去り、二が来り、二が消えて三が生まるるが為めに嬉しいのではない。初から窈然として同所に把住する趣きで嬉しいのである。既に同所に把住する以上は、よしこれを普通の言語に翻訳した所で、必ずしも時間的に材料を按排する必要はあるまい。矢張り絵画と同じく空間的に景物を配置したのみで出来るだろう。


こんな具合で、漱石の得意分野は視覚芸術なのだ。音楽家よりは建築家にずっと近い。漱石は目のひとで、耳のひとではない。




ついでに興味深いのは、ピアニストのグレン・グールド(1932-1982)が『草枕』の大ファンだということである。「芸術の目的は、瞬間的なアドレナリンの解放ではなく、むしろ、驚嘆と静寂の精神状態を生涯かけて構築することにある」とはグールドの言葉だが、なんだか建築的である。グールドによるバッハの「ゴルトベルク変奏曲」も荘厳な建築を思わせる(気がする)。




音楽を生み出すのは何か、という先ほどの問いがまた頭に浮かんで、それは幸田文が知っているとふと思う。

というわけで幸田文に向かう。




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