前回の続き。三拍子の唱歌である。
それでは、残った「故郷」と「ぞうさん」はどうだろう。
故郷 (六四調)
うさぎおいし かのやま
こぶなつりし かのかわ
ゆめはいまも めぐりて
わすれがたき ふるさと
「故郷」は六四調である。この六四調、なんと、朗読しても四拍子にならないのである。
うさぎおいしかのやま◯◯
こぶなつりしかのかわ◯◯ (◯は休符)
「六」「四+二」としか読めない。無理やり「うさぎ、おいし、かのやま(チャッチャッチャッ!)」と読めば「三+一」「三+一」「四+四」で四拍子にできなくもないが、休符が多すぎて朗読が流れていかない。そんな読み方をする人はいないだろう。
よってこの「故郷」は、三拍子の唱歌・童謡多しといえども数少ない、真の三拍子の歌なのである。ようやく私にも四拍子ではない朗読ができた。「故郷」の六四調は、私を四拍子説の呪縛から解放してくれるだろう……。
と言いたいところだが、この六四調を持ちだして「ほらやっぱり日本語は四拍子に限らないじゃないか」とは、実は言えない。少なくとも二つ問題がある。
第一に、「故郷」の朗読は3/4拍子ではなく6/8拍子なので、前に言ったようにこれは三拍子というよりも二拍子である。正しく書き直すと、
1 2 1 2
うさぎおいしかのやま◯◯
こぶなつりしかのかわ◯◯ (◯は休符)
である。つまり、二拍三連の六文字をひとまとまりとして読んでいて、アクセントは「うさぎおいし」である。
でも、これは二拍子だ、四拍子ではないから違うものだ。そう言ってしまいたい。しかし、「秋来ぬと…」も一拍四文字とすれば二拍子である。一拍に3文字入れたか4文字入れたかの違いであり、根底に流れるリズムは何にも変わらないのである。きっと別宮氏に聞いても、「うん、当然二拍子も日本語にあるよ。二拍子、四拍子は兄弟みたいなものだからね。」と言われるだけだ。
一瞬いい線行っていると思われた「故郷」と六四調だが、蓋をあければ二拍子だった。三拍子の朗読が発見できればすごいが、おそらく、そもそも日本語は三拍子で読めない言語なのだ。
というのも、英語なら「I am Tom.」「He has gone.」「Cats and Dogs.」など、3つの音だけで文章ができる。これを連続して朗読すれば日本人の私でもごくごく自然に三拍子になる。しかし、日本語でひらがな3文字の完結した文章を考えようとすると、ちょっと難しい。
第二の理由はもっと単純で、六四調が新しい日本語だということ。
六四調は西欧との出会いから生まれたものである。「故郷」は日本オリジナルの曲だが、一般的に六四調は西欧曲の訳詞に多い。つまり、そもそも三拍子のリズムを念頭につくられた日本語であり、この比較的新しい日本語を例にあげて別宮氏に詰め寄っても、そもそも意味がないのである。意味がないどころか、「西洋は三拍子、日本は四拍子」という説が強化されるばかりである。
六四調とは、西欧の曲と詞が先にあり、あとから日本語詞を当てはめる際に便利な字数だった。このように音楽が先にあり言葉を後で詰め込むことを「メロ先」と呼ぶらしい。
参考→ 安田寛『音痴と日本人』 とても興味深いです。
その「メロ先」の行き着く先が、「ぞうさん」である。
ぞうさん
ぞうさん ぞうさん おはながながいのね
そうよ かあさんも ながいのよ
四四九三五五。もちろん音楽は三拍子だが、朗読上は韻律がなく、無調と言っても良い。なぜこうなったのかと言えば、「ぞうさん」は文字に書いたときの美しさ、朗読したときの美しさを前提としていないからである。「ぞうさん」も「故郷」と同様に、まず三拍子の曲が言葉よりも先にあり、そこに(この場合ぞうさんの鼻の長~い感じを表現しつつ)音ハメしているから、文字数はどうでも良くなるのである。これが「メロ先」によって楽曲に従属した日本語の姿である。言うまでもなく、この「ぞうさん」を別宮氏に見せても、四拍子説を覆す反論とはなりえない。「ぞうさん」は戦後生まれの一番新しい部類の童謡だからだ。
長々と三拍子の唱歌を朗読するということをやってきたが、結局、日本語四拍子説はなかなか手強い。
でも……なんかおかしくないか。騙されている気がする。だって、朗読するときに四拍子で読んでいる私自身が揺るぎないのであれば、何を読んでも四拍子になるだけだからだ。その私は、太古の日本の血を引いた私なのか、はたまた西欧化した日本人としての私なのか。
リズム考(4)へ。
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