思想の靴、便利な靴



いまさらだけど、西洋人が寝室のベッドのところまで靴を履いたままというのは、あらためて考えるとものすごい。靴なんてもともと人間が類人猿みたいなものだった頃にはなかったものなのに。

外国へ行ったときは貧乏旅行なのでユースホステルに泊まることが多いけれど、あの二段ベッドの窮屈な部屋で、靴を履いたままちょっとひと休憩と掛け布団の上に横になる西洋人を見るたびに驚愕するのである。布団汚くね?とか。そして、ベッドに腰掛けながらいそいそと靴と靴下を脱いで、それをどこに置いたらよいかとまごつく自分を発見する。




このとき僕が驚いているのは、ようするに西洋人は生活を、人間を、あとからできた発明の上につねに再定義して生きているような気がして、われわれのことを考えたときに、彼我のそのあまりの違いに驚いているのだ。




日本人は、靴こそ履くものの、できれば履いていない状態のほうが気持ちいいと思う。独り暮らしの部屋に帰ってきて靴を脱ぐときの解放感といったらない。靴は便利だから一時的に使ってはいるが、履いていない状態の自分が「本来」だという感じがある。また、大人数で「ひとんちパーティ」をするときに色とりどりの靴で狭い玄関の土間が埋まるのを楽しげに眺めていると、この西洋式の生活の上に無理矢理成り立っている日本人の変なかわいさに思い当たる。

と同時に、日本人は結局、技術や発明に対して「便利」という基準で一時的に利用するという方法でしか関わりを持ってこなかったのではないかとも思う。あるいは「スタイル」としてそれは外部からもたらされるものの、「本来」の状態はいつでも「帰る場所」として残されているという奇妙な安堵とともに生きている。




スーパー銭湯というのはなかなか行かないけど、先日九州でひとっ風呂浴びてきた。女風呂はどうか知らないが、男風呂の更衣室がむさ苦しい。なんで大量の全裸のおっさんや高校生と一緒に巨大な湯船に浸からなければならないのかと思うけど、もう少しこぢんまりとした鄙びた温泉となると、他人がいてもいいもんだと思ってしまう。

一方、外国にはスパというものがところどころにあるが、たとえば風呂(bath)の語源でもあるバースの街の共同浴場も水着着用のスパである。西洋でも昔は共同浴場があったはずなのに、いまでは日本の温泉が奇異の目で見られるし、混浴などもってのほかである。この変わりようはなんなんだと。




日本において、現代的な生活と知らない他人との全裸のコミュニケーションというものが両立するのは奇妙である。しかし、前者が着せ替え可能なスタイルだと皆でどこかで思っていれば可能だ。本当は技術に追い越されてしまって久しい(つまりスタイルだろうと容易に取り替えられない)日本人の生だが、その「技術」が「思想」と無関係に成り立つもんだから、ある意味で軽傷で済んでいるところがある(見方をかえれば重症ということにもなるだろうけれど)。そして実際ちょっと気を抜けば原始的な生活を楽しむ心が芽生えるのだ。カウンターカルチャー=正統からの違犯あるいは対立としてではなく、誰もが帰るべき場所として。

西洋においては技術の進歩と思想がもっと不可分で、それらが先導するように生活がしっかり組織されている。というか、そのようにして成長することが人間のモデルとして考えられているふしがある。空間的・時間的距離が西洋のそういった精神と技術を分解して、日本に辿り着いたときには断片的なキラキラとしてうつる。それを拾ってどう使うかという発想になる。




思想がほとんど根付く以前に、技術革新をほとんど利用価値のみで見ている。だから外国人が見て唖然とするほど文化や歴史というものに無頓着であるように映るが、無頓着が文化で歴史なんだというレトリックも可能である。もっと厳密に見ていけばレトリックではなくロジックとしてそう言えるのかも知れない。とにかく、なぜこんなことを書いているのか忘れたが、靴を見てふとそう思ったのかもしれない。




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