(第七話)青木淳の正しい読みかた



なんだかよくわからないうちにマジメな話ばっかりしている。困った。くだらないことを書きたいよう。でもまじめができない人に笑いなんかできるわけないから、今は地盤堅めに精を出すしかない。不本意だがそういうもんなのである。




で、青木淳は不思議なことを言っている。前に、空間の質には「原っぱ」と「遊園地」の2つの分け方があると言っていることは書いた。それが『原っぱと遊園地2』(青木淳、王国社、2008)になると、「野原」が出てくる。あわせて「空間の質が持ちうる3つの相」になった。「野原での遊びは、基本的には自然が与えてくれる遊びだったように思います。こどもたちが自分たちで「創造的に」なにかの遊びの約束事をつくるには、野原だと取りつく島がなさすぎたのかもしれません。原っぱには遊びをつくる手がかりがありました。」

この文章を「人は「原っぱ」に触れるときに創造的になる。それが人と空間との本来のあるべき姿だ」というふうに読む人は、たぶん青木淳のことがわからない人間だと思う。僕自身がそのように読みがちな人間なのだが、実はこの文章は、ただ単に「私は、野原もいいけど、原っぱが好きだ」と言っているだけだ。養老孟司なら「んなもん野原に決まっているだろうが」になるだろう。これは好みの話である。論理的な文章に見えて、実はそうではない。

「遊園地」批判=現代批判こそ書いているが、『原っぱと遊園地』『原っぱと遊園地2』の基本のトーンは、ただただ自分が好きなもの、それをどうやったら作れるか、ということを延々とやっているだけなのである。ものすごく私的な動機で建築をやっているという点で、青木淳はルネサンスからつづく正統な「建築家」とは違う。ユマニストではない。ものすごく頭のいい人のようだけど、そういう道はとっていない。あるいは意識的に忌避しているのかもしれない。僕としては、後者だと考えるほうが話としておもしろいんじゃないかと思う。


建築を「つくる」という言い方が、そもそもシンドイ。無から有を生じせしめる。実に英雄的な行為だ。しかし、なぜ造物主よろしく、なにがなんでも「つくら」なければならないのか。目の前には、どんな場所にも豊かな物質的世界がある。それを並べ替え、組み替え、変形する。それで十分に私たちのまわりの物質的環境は変わる。それを「建築」と呼ぶ。それで良いじゃないか。(青木淳『原っぱと遊園地』)


はじめ読んだときには「なんていいことを言うんだろう!」と思った。今読み返すと、もっと痛烈な「建築」批判にも取れる。

青木淳のテクストをいろいろと曲解してきたけれど、本人に「教化」の意図はほとんどないはずだ。勝手に解釈して旧来の「建築」にしてしまうのは、いい迷惑なはずだ。だから僕もそろそろ青木淳の文章から少し離れよう。ただ、そういう人である青木淳の言っていることが、なぜ(僕を介してだけど)「神」や「他者」や「日本」と親和性を持つのか。それは考えてもいい気がする。




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