(第五話)とつぜん、思い出



またいろいろ考えているうちに、次に何を書くんだっけ、と忘れてしまう。思い出せない。それで読み返すと、柔らかい言い回しを使ってはいるけど、なんだか難しいことを書いている気もしてくる。難しいまま進んでいくと書くほうも読むほうも疲れるので、とつぜん、今日は思い出のようなものを書こうと思う。




父方のおばあちゃんの家は、代々木八幡にあった文房具屋だった。僕は、この家にただよう異様な空気を子供心に感じ取っていたらしい。

商店街に面した一階の文房具屋はやたら暗かった。冷たいコンクリートの土間に、この上なく質素なガラスの陳列棚がいくつか置かれていて、青白い蛍光灯が積まれたペンやら紙やらをかろうじて照らしていた。ペンやら紙やらがたくさんあると「変なにおい」がするんだと子供の僕は思った。換気もあんまりされてないから空気は地層のように室内に居座っていて、今になって考えるとただ「かび臭い」ということなんだろうけど、当時は「文房具がたくさんあるときのにおい」だとしか思わなかった。店の奥にこれまた暗く狭い居間があって、神棚があった気がする。神棚というのはへんだ。壁の高いところにあって、子供には届かない。そこに呪文のようなものや、いつから置いてあるのかわからない食品やコップがある。普通に考えたら、居間にこんなヘンテコなものがあるのは居心地のいいものではない。子供の僕は「よくわからないけど触れてはいけないもの、まだ知らなくていいもの」だと思った。いま目に見えているものだけがこの世の全てではないことを、直感的に感じ取っていたのかも知れない。

敷地は完全な直角三角形をしていて、どんづまりの鋭角部分に風呂とトイレがあった。どこも昼間なのに暗かった。居間の横にある階段で2階にあがると、幾分明るかった。街路側は畳のがらんとした部屋だった気がする。そこはいつも「もぬけの殻」だった印象だ。屋上に上がる階段が奥にあるので、そこまでは廊下で、廊下伝いに収納があって、この収納にはNゲージかなんかの精巧な鉄道模型が入っていた。そうして屋上行きの階段につく。僕はこの階段がどんなであったか全く覚えていない。しかし、上がろう。そうして辿り着いた屋上というのもまた、へんだった。外から内に入った先にまた外に出る。この世から少しズレた感じがする。ここには金魚鉢が無造作に置かれていた。観賞用のきれいな水槽なんかじゃない。屋上にポツンと置かれた鉢は陶器で、しゃがんで覗き込めば、水なのか藻の塊なのかわからない底なしの闇があって、かろうじて赤い魚影が潜んでいた。10年も生きていたそうだ。都会の屋上で輪郭のおぼろげな朱色の生き物が、10年間、真っ黒な水のなかにいる。そういうものも、この世にはあるのだ。

もう少し言うと、おばあちゃんそのものもまた「こわかった」。別に怒るとか機嫌が悪いとか意地が悪いから怖いということではない。母方のおばあちゃんは割合近いところにいたのだが、この「渋谷のおばあちゃん」はなんとなく遠くにいた。何を考えていて、どういうふうに生きているのか、得体が知れなかった。それに、老いた容貌というのはそれだけで何か「こわい」ものがあるのだ。最近だと何でも「かわいい」になって「かわいいおばあちゃん」なんていう感じ方もできてしまうが、そんなふうに自分に引き寄せて愛でる対象では、本来はありえない。




こういう密度の濃い空間体験って、僕と同年代ならみんなあるんじゃないだろうか。こうやって思い返していると「ガラスのはまった木の引き戸がガラガラと音を立ててレールの上を動くときのにおい」といったとんでもないものまで思い出せる。今だったらこれは間違った文章ということになるけれど、確かにそういう「未分化」の世界があったのだ。それに引き換え、我が家は何もこわくないし、わからないものもなかった。全部がコントロールできた。それが何でそこにあるのか問われるようなものは、家の中にはなかった。我が家は普通のマンションであったか、普通の一軒家であった。もし今の子供たちのおじいちゃんおばあちゃんまでもが漂白された、判で押したような住宅に住んでいたら、と思うとものすごーく危機感を覚えるのだ。実家のあるさいたま市武蔵浦和では田んぼもなくなってカエルの大合唱が完全に消えた。ふつうに考えればわかることだが、「まじで」子供の遊び場は減った。かなり減った。別に世の中はいいのかもしれないけど、僕はこんなつまらないのはいやだ。

「謎のもの」や「ものの謎性」をとりあえず「わかったこと」にする。そのうえで「わかったこと」をどう利用するかがみんなの関心である。というのが「情報化社会」の正しい解釈である気がする。「脳化」といっても「概念化」といってもいい。こういう世界をどうしたら豊かにできるだろう、ということを考えながら、もう少しこの「青木淳で考える=基礎編」を続けよう。




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