(第三話)僕は神社に向かった



正確にいつからかはよくわからないけれど、僕の頭は神社へと向かった。過去のブログを見る限り2006年4月には「感動」や「畏れ」といったタームが見られ、同年9月には「美とはなにか」「明治神宮の構造」といった記事に発展している。10月になると都内の神社を巡るようになっていて、同時に神道に関する本を3冊読んでいる。12月にまとめた「異様な空気を放つような(訴えかけてくる)建築」をもとに改めて考えると、

1 神様、宗教関係

2 廃墟

3 工場、土木

4 共同体の建築(国家)

の4つがこの世にある「"畏れ"をもった建築」だと考えるようになった。少し補足が必要なのは1と4で、1はキリスト教の教会よりは神社のほうをイメージしていた(だってキリスト教はこわくないもん)。4は(竣工当時の)東京タワーやシュペーアのナチズム建築などのことだ。




僕は卒業設計を控えており「このリストに名を連ねるような建築をつくらねばならない」と思った。それは個人的にやりたかったというよりは、社会からそういうものが少なくなっていくことに対する危機感からだった。(結果的につくったものは「社会性がない」と思われる最たるものだったが、僕はきわめて「社会性」に立脚してやったつもりだった。)

で、1~4について考えた。どれが建築家に可能か。3は建築家の仕事ではなかった。たとえばセメント工場はセメントをつくるために最も効率的に考えられた結果であって、それ以外の何の「狙い」もない。それは工学の世界であって、むしろ建築家が関わらないことによって得ている「畏れ」である。2はもっとできない。「つくる」ということの逆だからである。じゃあ4はどうかというと「国家」という共同幻想が機能しなくなっているのが現在である。これをやるのはかなり時代錯誤だ。では残る1はどうか。神社には決まった「型」がある。僕らはこの「型」を崩して設計することが許されない。なぜなら「いつ決まったかわからない謎の「型」を守っている」ということが重要なのだ。遠い昔の神話が担保するという「無根拠さ」が「畏れ」を生み出しているのだ。もし神社をつくろうとしても「型」を守った上での変奏にしかならない。それは卒業設計としてあまりおもしろいものではない。




それで僕は困ったが、困ってこういうことを考えた。

5 ものすごくパーソナルなもの

自分からしか生まれないもの、自分の偏愛、自分がものすごく考えていること、そういうものがそのまま現実に現れたらどうだろう。それは異様でいびつなものになるんじゃないか。他の誰もが感知しえない、しかしとても論理的に考えている。そういうものには「畏れ」が宿るんじゃないか。そう考えて、僕は「これでいこう」と思った。




今だからもうちょっと整理できるが、ぼくはやっぱり5によって今の時代の共同体をつくろうという気持ちがあったのだ。神道に共感して、それをベースにしながらも国家に帰さない(国家に帰することでどんなお粗末なことになったかはいうまでもない)でいかに共同体らしきものをつくれるか。僕は未だにこの問いに対して答をもたないけれど、それは今からの宿題だ(たぶん、本居宣長は避けて通れない)。




では、次は青木淳にもどろう。




4 件のコメント :

  1. 初めまして。九州で建築の勉強をしている大学生です。
    偶然このページを見つけ、青木淳の話・遡上都市に大変刺激を受けました。
    「ものすごくパーソナルなもの」の説明の中で、「他の誰もが感知しえない、しかしとても理論的に考えている」という説明を書かれていましたが、「遡上都市」における論理的な部分とはどういった所なのでしょうか。自身で設計する際にもこの2つの関係でいつもつまずいてしまいます。
    漠然とした質問ですみません。よろしくお願いします。

    返信削除
  2. 立て続けにすみません。言葉が足りなかったので補足します。
    青木さんの理論で言うと、工場は生産性など人間とは関係のない「工場の理論」を徹底的に適応した結果の空間であり、美術館などの他の用途に変更されるとその理論の根拠がなくなるので空間が自由になるという流れだと理解したのですが、個人的な感覚によって創られる空間はどうしても恣意的な部分が残り、原っぱにはならないのではないかという疑問があってこのような質問をさせて頂きました。
    長々とすみません。

    返信削除
  3. 初めまして。ブログ読んでくれてありがとうございます。
    遡上都市の論理的な部分は、舟が川を遡ったりドックに収まったりしやすいようになっている、荷物を積みやすいようにクレーンが付いている、潮の干満で舟が通れる所と通れない所ができる、おなじく満ち干きで空間の大きさが変わるためそれに合わせて部屋の用途が機能したりしなくなったりする。といった、瑣末なことがらを使って設計している点です。
    それ以外にとくに論理的なことはありません。しかもこの論理は、この論理の外にある有益な何かのための論理ではないです。いわば閉回路です。
    めちゃくちゃ「恣意的」ですが、人間のことや美術館としての使いやすさを完全無視しているので、原っぱになれます。
    あとは、その敷地にとってそんな変な風景ではない、っていうのは重要かと思います。それを調整するのは感覚です。

    「恣意的」という言葉がよく敵にされますが、人がある建築や空間で嫌な感じを受けるときに、「恣意的だから感じる」ということは本当にあるのでしょうか? 例えばガウディはどうなるんでしょうか? 僕は、恣意性を指標にして点数をつけるのは建築界内部だけでのローカルルールで、悪の根源だと思っています。

    返信削除
  4. ありがとうございます。
    恣意性の排除を設計やデザインの逃げ道として考えずに、感覚を信じて良い空間を設計したいと思います。

    返信削除